あおしまの日記

あおしまさんの日記らしいです。個人的に興味がある事を時々書きます。スマートウォッチPebble日本語パックを作成、公開しています。

余談

終戦後、祖父は警察官となり、定年まで勤め上げ、その後は隠居生活をしておりました。2012年7月に亡くなりました。91歳でした。

祖父が飛行機を見に行きたいという話をしたのは、展示館が出来てから数年後の事でした。戦友などから話を聞いたようです。また、雑誌「丸」への掲載も切っ掛けだったのではないかと思います。(祖父がその雑誌を購読していたわけではありません。)

しかし、戦時中からの「天皇陛下がくださった機体を沈めてしまった」という思いは当時も強かったようで、その恥ずかしさからか、自分から名乗り出ようという事を躊躇していたようでした。

上の話を聞いたのは、加世田に機体を見に行く前日夕方でした。翌日朝、国民宿舎周辺を散歩していて慰霊碑を見つけ、その宿舎周辺のその土地こそが、その昔仮眠を取っていた指宿基地の土地だということがわかりました。おそらく指宿の基地に居る魂が、祖父にいろいろ語らせたのでしょう。

翌日、加世田の平和祈念館(現:南さつま市 萬世特攻平和祈念館)へ向かい、機体を拝見しました。アポなしであり、当時は搭乗者が(「丸」に投稿した方以外にも)生きている事を御存知なかったのもあり、館長さんも大変驚いていました。館長さんの許可で展示中の飛行機の中に乗り込む事が出来ましたが、その際どこに足を掛けるかなど、祖父は体で覚えていて、ひょいと中に乗り込んでいました。ほんの小さな突起だったんですが、身体が覚えている事に私は驚きました。

ガラスケース内の引上げ品の展示には、話に出てきたお手玉のような物と、円盤型の計算尺もあり、祖父の前日の話を裏付けていました。

その後もう1度、2003年に祖父は祈念館を訪れています。その際は事前に連絡を取っていたせいか、地元メディア(TV、新聞)ががっちり固めた形での訪問になったようです。当時はイラク戦争の最中でしたので、それと絡めた形での取材も受けていました。

機体を製造した渡邉飛行機は、当時九州飛行機という名前で愛知のライセンス生産をしていたようです。会社自体は現在もあり、雑餉隈自衛隊基地の近くにある模様です。
http://www.watanabe1886.com/history.html

後日、博多の「水炊き 長野」へと連れて行きましたが、こんな感じだったかなあ?と言っておりました。水炊きの味にはだいぶ満足しておりました。料亭のような所、雁ノ巣に近いというと、おそらくここではないかと思ったのですが......。

展示されていた祈念館がある万世基地跡地は、戦後大規模砂地栽培の実験プラントの設置場所として使用された事もあったようです。そしてその指揮をとったのが、「永田農法」の永田さんでした。
日本の食糧事情を改善しようという民間活力による開発だったようですが、そこで農業が「出来てしまう」事で困る方もいたようで、実験は残念な結果に終わる事になります。

なお、加世田市平和祈念館は、いわゆる「ふるさと創生1億円事業」で造られたものだと聞いています。万世飛行場自体は陸軍航空隊の秘匿基地でしたので、海軍の偵察機を収容するのはちょっと違うようで、本来でしたら設置は別になってもおかしくありませんでしたが、引き揚げ整備と収容に当たっては色々調整があったようです。

訪問者の記録などを拝見しますと、1階の展示と2階の展示を混同する方も見受けられますが、その土地本来の意味からすれば展示は2階の内容こそがメインであり、祖父の飛行機は他所から助っ人的に呼んできた「目玉」です。たまたま近所から引き揚げられたにすぎないと私は考えます。

2011年12月、祖父が乗っていた水上偵察機は、「重要航空遺産」に認定されました。
http://www.aero.or.jp/isan/heritage/aviation-heritage.htm