あおしまの日記

あおしまさんの日記らしいです。個人的に興味がある事を時々書きます。スマートウォッチPebble日本語パックを作成、公開しています。

WikiばなVol.7感想

(注意:以下の話は、個人的な独断に基づいて関連すると思ったバックグラウンドとして非常に多方面の内容を巻き込んでいます。訳がわからない場合は適宜読み飛ばすことをお勧めします。)

日課題図書の感想の時*1に書いた様に、WikiばなVol.7に参加しました。中でも何人かが触れられてましたけれど、思い返せばid:yomoyomo迎撃大会(シークレットゲストがid:jkondo)から始まった何気ない集まりが、コアメンバーを温存しつつ、Blogブームもくぐり抜け、いままで存続している事に驚く。

そのid:yomoyomoとも今回5年ぶりに再会した訳であるが、どこかなと思ったら案外と近くに座っていたので、「ちんさや」ネタでもってチャット経由で揺さぶりを掛けたらリアクションが大きくて面白かった。はてなのTシャツ着て、サングラス掛けていたのが最終確認手段であった。本当は面と向かって言えば良かった事もあったが言いそびれたので、また5年後ぐらいに会った時にでも伝える事にしようと思う。(怖がられて2度と口きいてもらえないかもしれないが。)

今回はWiki関係、特に本に書かれていた事に関しては、特に感慨はない。強いていえば本の感想の通りで、「デザパタ、XPこそ民藝、工芸のアプローチに向いている。」である。同じプログラムを複数回書く事が珍しい事を考えればそれは自明であろう。*2

ただ、Wikiから離れた件で触発され、何となく脳内でこうじゃあないかと不安定に浮遊しているアイデアを光らせて定着させてもらう体験をいくつかした。

etc.

個々の件に関して言うと、マインドマップで先日自己紹介を書く機会があって(結局誰にもお見せしていないが)その時に「あの件とこの件はつながっているから意味があるのに、この間をつなぐ線が引けないのはもどかしい」と思う瞬間がいくつかあったのでした。その「ワンモア」こそがセミラティス構造という物なんだと言う事で、日々の自分の考えるやり方として、いい線行っているのかなと思うのがあり。

また、15対の写真の好ましい方を選ぶ件に関しては、これは中埜博さんの話を見ていただきたい。*3これでもって、写真の魅力的な撮り方、という解釈も出来るし、根源的な美とは何か、という問題にもつながる面白い試みであった。私は中間あたりで、どういう意図で、どちらのサイドにある意図を持った写真を並べているかに気が付いた。そこから先は、なぜその写真がその側にあるのか、個々の写真の掲載意図も見えた。それは美の根源に理屈付けをするような事になるわけだが、これから得られた感想はここには書かない。今後、ある分野との擦り合わせによって納得が出来れば何らかの形で表に出すかもしれないがいまのところは何とも言えない。
ただ、今言える事としては、この選択肢には「幾何学的な均整に由来する美しさ」という視点が欠けていた様に思う。特にこれらは後天的に学習によってもたらされるが、文明世界においてこれを無い物として美について語るのは、如何にある一人の考えだとはいえ大きな欠落だと思う。だから、先天的な美意識よりも法則性、幾何学的数理的均整に多く惹かれる、特に理系の方などには、所々違和感が表れるだろうと感じた。
ちなみに、私は左10、右4、どちらとも好ましいと思えない1、という結果であった。右4は、この幾何学的均整に由来するものであった。(ちなみに、どちらとも美しいとは思えない1は、女性の写真である。これは個人的な趣味による物なのでどうでもいいが。)
しかし、彼の話し方は往年のアジ演説を彷彿とさせるもので、エバンジェリストとして逝ってしまった感があった。しかし、それは今回だけではなく、彼の普段からがその様なので、自分の中で差し引きして扱えば良いかと思う。

沢田マンションの話は、Webにまとまった物は2度ほど読んでいて、今回30分の実際の案内ということで魅力を再認識した。これと道(TAO)と、中埜さんのパターンのはなしとで、今回の自分の中の結論と言うか今後の人生の指針の様なものが浮かび上がった。(後述)

茶室の話は、それだけなら何ともなかったが、中埜さんの話のあとなので、「統一感と崩し」なんだと個人的には解釈した。また、数寄屋造りへとまとめられる過程と、先日のバウハウス・デッサウ展の印象とがかぶる点があり、そこも機会があったら比較してみたいと思った。(ここに写真があるが写真の構図というか切り方がおかしい、というかわかってない。本当はこの写真の左側にドアと展示棚がある暗めの配色のアプローチ部があって、この写真の空間へと開ける。主人(校長)と対峙する椅子、明かり取りの窓、などに私は茶室を見た気がしたのでした。http://www.excite.co.jp/ism/concierge/rid_1693/pid_6.html

孔子の言い分については大学時代にある限界点からの転換を図った時に考えた事と同じ事を言っていたので驚いた。哲学思想系はまったく嫌いなんだが、それらの本を読んでみても良いかと思った。

ただ、ライトニングトークの中で、吉岡さんの物だけはどうにもこの話の中で異彩を放っていて、ひとり勉強会勉強会モードでどうにもなじめなかった。勉強会の権威?さんなのかもしれないが、あの流れの中ではいちばん801(お耽美ではなく、本来の意味で)だったと思う。

通しで思う今回のWikiばなの収穫、今回の話の総括としてあくまで個人的に思ったのは、

  • 美しいと思える物には傾向がある。
  • その美を生み出すための方策として、XPなりデザパタによる持続的な改善とその反映は有効なのだろう。これはプログラムより他の物、1から完成形まで作り上げる事を繰り返すシーンに有効だろうと思う。
  • 幾何学的均整と先天的な感性との線引き、バランスは検討課題。
  • 道(TAO)こそがWayであるならば、そのWayは人生になぞらえ、応用する事も出来るのではなかろうか?
  • つまり、遠くの理想の完成形を目標として持ち、かつ卑近の小さなステップを消化しフィードバック、リファクタリングする事によって、より良い形、より良い完成形、好ましい周囲の状況を生み出す事ができるならば、人生も同じ手法が使えるのではなかろうか?充実した人生を送るべく多くの方が言っている個々の標語などに多くかぶるのはこの証左ではないか?
  • 私個人には、死ぬまでに叶えたい究極の目標は既にある。また、中長期目標はある。残るは卑近の小さなステップの設定、消化、そのフィードバック、リファクタリングについてのプロセスが足りていないと考える。*4

こんなところでした。
以上。


追記:
今回の内容では「スピリチュアル系要注意」と言う方もいるが、自分が考えて来た事と同じ路線の事ならば、それを一歩前へ進める為に使えるアイデアを取捨選択して使うのは良いのではなかろうか?盲目的に万歳はマズいとはおもうが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/aoshimak/20090801

*2:その昔、椎名誠が「演歌歌手はいいよな。30年間歌い上げました、と言えるんだもの。作家も同じ本何度も書き直して『30年間、書き上げました。』と言ったって誰も相手にしてもらえない」という様な話をしていたと思う。(たぶん「発作的座談会」の中だったと思う。)それを思い出した。

*3:http://www.ustream.tv/recorded/1947302

*4:あとで懇親会で懸田さんに、このあたりの考え方や指針のアイデアをいただいた。これで全てのピースが埋まったので満足して帰る事が出来た。感謝。