あおしまの日記

あおしまさんの日記らしいです。個人的に興味がある事を時々書きます。スマートウォッチPebble日本語パックを作成、公開しています。

祖父の飛行機

以下は、1996年の春、私は家族と祖父とで加世田に展示されている飛行機<零式三座水上偵察機(E13A1a)>*1を拝見するために、前日は指宿の国民宿舎に宿泊し*2、その時に問わず語りに話した内容を思い出して書きました。(不時着までの時系列などは、雑誌「丸」1994年5月号に掲載された話の方が正確だと思います。)
先日祖父が亡くなったことから、これも何かの機会だと思い、公開する事にしました。

(祖父は)海軍航空隊に所属し、沿岸警備の様々な部隊に所属して
いました。主にゲタバキ(水上偵察機)を運用して、日本周辺海域の
偵察任務を行っていました。千島列島やカムチャツカ、日本海側に
居た事もありました。

沖縄戦前後より、沖縄方面の偵察を強化するために、夜間偵察飛行を
実施することになり、そちらに配属が変わったそうです。三〇二空
(さんまるふたくう)と呼んでいた部隊です。
機体は愛知の零式水上偵察機ライセンス生産を行っていた、渡邉
飛行機(注:九州飛行機)で製造したものでした。
八木アンテナを付けた電磁索敵(電探)搭載モデルで、当時としては
秘密のハイテク兵器のような機体だったそうです。
その電探操作の為に、通常設計2座(操縦士+機関銃担当)のところ
を、3座に拡張(操縦士+電探担当+機関銃担当)したので、乗る
のは狭かったそうです。
祖父は電探担当の通信兵として搭乗していました。
この配属前に、並行して電探(レーダー)の操作研修を受け、電波を
打ち跳ね返ってきた波のオシロ波形で、山や海、敵機や物体などを
判断していたそうです。

この機体の引取りは雁ノ巣の飛行場(現:海ノ中道海浜公園)で
行われました。試験飛行をし、性能確認の上引渡しという形です。
博多湾の上をぐるっと回って性能評価をしたそうです。
当時の配属先から列車で長距離移動して引き取りに来たところ、
兵隊さんだからと歓待され、その時に食べた水炊きが忘れられかった
と言います。

その後、福岡県内にあった小富士基地という所に居て、6人で
2交代制を敷き任務に当っていたそうです。近くに小さいが富士山の
ような形をした小山があり、それで小富士という地名になった
らしいです。(注:現在は可也山と呼ぶようです。)

当時同じ任務にあたっていたのは6名。機体は2機。1機に3人
搭乗して、1日交替で偵察に出動するサイクルでした。

ローテーションとしては:

  偵察機で昼に小富士を出発、指宿基地に到着
  指宿で夜まで仮眠を取り、暗くなってから偵察に向かう
  沖縄方面を偵察の後、夜明けに指宿に戻る
  指宿から小富士に戻る間に、もう一組は小富士から指宿に移動。
  その日の夜間偵察を行う。
  その間小富士に戻った3人は、翌日の準備を行う。

これを繰り返す形でした。

指宿に居るときは、横で特攻隊員などが出撃していくのを見たこと
もあったそうです。

当時、夜間飛行を行う時には、海面に袋に詰めたお手玉様の物を
落とすと、海面で発光するので、それを目印に偏角(風で流され
る量)を円盤型の計算尺で計算しながら現在位置を割り出しつつ
飛行するのが通常の飛行時の作業だったそうです。
(注:話を総合して、私が推測したところでは、カーバイド等を
詰めたお手玉のような物を落とすと、水面でアセチレンランプ様に
自然発火することを利用していた模様。)

飛行機を沈めてしまった当日は、3名で任務に当っていました。
しかし沖縄戦激しい頃という事もあり、沖縄付近で米軍機(グラマン)
に発見され追いかけられたそうです。
電磁欺瞞(今で言うチャフという物らしい:金属の剥片吹雪の
ような物)を撒きながら、水面すれすれを蛇行しながら回避飛行を
取り、鹿児島本土まで逃げ切ってきたそうです。
本土を見て一安心して、知覧の飛行場なら降りられると思い、
残り燃料を気にしながら知覧まで飛行したそうです。

しかし、折悪く知覧はその日空襲があり、そこへ飛んできたので
地上からは敵機だと思われ、下から高射砲で攻められ着陸を断念。
仕方なく回避したところで燃料が切れ吹上浜の沖合に不時着水した
そうです。
その際、祖父は外れた翼端板が目の前に来たのでそれにつかまり、
泳いで岸を目指したそうです。かつて上官から「明るい方が海だ」と
教わっていたのもあり、月夜だったので暗い方暗い方を目指して泳ぐ
と、砂浜の河口のような所にたどり着いたそうです。
(この時点で同乗の2名とははぐれて単独行動)
川を遡れば集落があるだろうと思い、川を歩いて登って行き、集落に
助けを求めたところ、ずぶ濡れの兵隊さんが深夜に訪ねてきたので
(幽霊のように見えて)驚かれたが、その後、集落長の家に案内され、
数日お世話になったそうです。
兵隊さんをもてなそうということで、集落では鶏卵を供出させたらしく、
毎朝殻に名前が書かれた生卵が食卓に積み上げられていたそうです。
自分のせいで卵が食べられなくなった子供もいただろうに、申し訳
ないと思いながら食べたそうです。その間、軍へ報告もし、集落長の
家で数日間厄介になったあと、列車を乗り継いで小富士基地へと戻った
そうです。
基地では機長(操縦士)とは合流したが、もう一人(「丸」の記事を
書いた方)は基地に戻らず、終戦後数年後までまで会わずじまいでした。

事情はともあれ、天皇陛下から下賜された機体を沈めてしまったと
いう事で申し訳ないのと、大いに罰せられると思う所もあったが、
軍法会議に掛けられ再教育に回される事になった祖父は、残る1機での
偵察飛行の手伝いを少し行ったあと、呉の海軍基地で再教育を受けて
いる最中に、終戦を迎えました。

その時の操縦士や、偵察隊の同僚の多くは、その後日本航空をはじめ
飛行機やヘリコプターを扱う会社などに採用されたそうだが、祖父は
家に戻らなければと思い、その当時の計器はすべて同僚にあげたそう
です。
(当時は計器は自分持ちで、乗るたびに自前計器を設置して操縦して
いたとのこと。)

*1:南さつま市 萬世特攻平和祈念館 http://www.city.minamisatsuma.lg.jp/kanko/facility/

*2:この場所が重要であることが翌日判明します。