あおしまの日記

あおしまさんの日記らしいです。個人的に興味がある事を時々書きます。スマートウォッチPebble日本語パックを作成、公開しています。

「翻訳者養成至上主義」の弊害と対策

上の、「翻訳者養成至上主義」の弊害を以下に書く。

  • 修飾部に起こる返り読みは、翻訳(流れない情報に対して解釈を行う作業)では問題が起きないが、リアルタイム性を要求される会話、並びに読解速度向上が必要な場面においては、逆行する流れを同時解釈しなければならない。この処理を効率よく行う方法論が確立されていないし、教育もなされていない。敢えて言うなら、熟語構文を駆使して時間短縮を図りましょうというのが唯一の方法論っぽく考えられているが、決定打ではない上に、個々の記憶力に依存する。この点記憶力に勝る女性が有利である。
  • 結果として、この方式に付いて来られない人は、より高度な教育を受けられない。つまり、英語のストリームと逆行して日本語のストリームを同時解釈できる、聖徳太子的能力を持つ物が、上位の高等教育に進む権利を持つ事になる。これが英語が出来る人は頭がいい、とか、帰国子女優遇措置の背景となる。
  • また、熟語・構文などという概念は「いかにエレガントに英語を『翻訳』するか」というエッセンスの集大成であり、内容理解とは別個の事だが、これを強要する。ここにまたハードルを設け「大量のパターン記憶とその即時適用が出来る者」のみがより高等な教育を受けられる権利を持つ事になる。
  • ましてや話す事なんて必要としていない。実用とする事を念頭に入れていない。だからフォネティクスやらない、リーディングメソッドやらない、ライティングメソッドやらない、etc.
  • 結局、必要に迫られるか、大枚はたいて英語教室に通うか、彼氏彼女を作るメソッドで「翻訳者養成至上主義」からの脱却を図る、もしくは別個の価値観の元で英語を学び直すことで、翻訳至上主義教育に対するアレルギーを解消するしかないのが現状である。

ここで、翻訳至上主義アレルギー対策として出される方策がいくつかある。ひとつが幼年教育のうちから英語を投入するなどで、「翻訳者養成至上主義」に染まる前から慣らしておけばアレルギーも起きないのではないか?というアイデアだ。しかし、その先生達の大多数が「翻訳者養成至上主義」で教わり、その枠組みから抜け出せない人達であり、また教育指導要領を作る人達が「翻訳者養成至上主義」を変える気が無いので、結局そういう方向に流されて、骨抜きになっておしまいになるのではないか?と私は予測する。もうひとつは「英語アレルギーは外人アレルギーではないか?」という陳腐な考えに基づき現在行われている「外人と触れ合わせる」英語代用教員によるELTである。

「英語を英語で教える」とは、「外人教師と触れ合わせる」の次のステップとして考えられているのだろう。しかし上に書いたような弊害を考えれば、中心にドカンと居座って動こうとしない「翻訳者養成至上主義」こそ変えなければならないのではなかろうか?その根幹である適塾門下、慶応門下から連綿と連なる「翻訳者養成至上主義」である日本の英語教育、世界でも特異なモンブショーイングリッシュと決別する事が出来るのか?そこが重要なのであって、ここが変わるなら、伝達言語は日本語でも全く構わない。逆に現行方針を持ったまま、英語を伝達言語として「熟語、構文、返り読み」を奨励したら、まったく意味が無い。

もはや、翻訳者を養成する必要も無い時代で、なおかつ個々人に英語教育を施すことが普通になった時代にあり、リアルタイム処理が必須になった時代において、翻訳者育成教育こそが英語教育だというのは時代の要請とは合っていない。いま必要なのは、英語のリアルタイム処理の為の教育法である。そこが国の教育方針として反映されていないから、何年経っても使えないとか、大学も出たのに話せないなどという現状となる。

また、以前も書いたが、英語がどーとか言う前に、もっと根本的に、日本の社会全体が論理的思考を尊重しない風潮の方が問題だと考える。英語は論理の言語。英語をやる前に、数理的思考を持ち、その上で自国言語を組み立てる事が出来た上で習得すべき言語だと私は考える。だから「読み書きそろばん」のあとに習うべく、現在の英語教育開始年齢が設定されていると思うのだが。ただ、小学校がいまやサル山だそうなので、読み書きそろばんは中学として、英語は高校生からでも間に合うのではなかろうかとも思う。

論理的な骨格無しに英語を話す人たちとして、思い返せば80年代に「バイリンギャル」なんて人達が居た。英語をぺらぺら話せるけれども、何か芯に話す事が何も無い人、日本人としてのアイデンティティーが欠落した人達を揶揄する言葉であったと記憶している。そこを問題視して、「日本とは何ぞや」が英語で話せない事が発端となって、小冊子を発行するにいたった新日鐵という会社もある。*1方針もなく徒に幼年教育をしても、あんな空疎な人々に似たのを量産するだけでしょう。

私見としては、以前書いた「小学校から英語」問題*2と同根で、あーあーまたぞろ自分たちがどういう背景を背負っていて、どういう立ち位置に居るのか解かっていない人達が目先の事だけで喚いているなと。それではどうにも変わらないのだから、日本英語教育界のアイコンたる福澤諭吉に赤ペンキを投げつけ、過去と決別してからにしたらどうか、と書いたのです。(ほんとにやってもらっちゃ困りますがね。)