日本語しか見ない
梅田さんも嘆いておられるが、これは「別の選択肢があるから」だとおもう。だから、なまじ日本語になってしまうと、人間低きに流れるものだし、そういう安易な選択肢が現れた時点でそれは止めようもない。そこしかない、英語しかないとなったら、引き返すか、意地でも制覇するかの選択となるわけで。ということで、英語で読むまでではないけれども、日本語になったら読んでみようかぐらいの重要度のコネタだという位置づけなのではないか。
日本での差別化というのは、ある時期以降、そういう安易な選択肢、低きに流れる選択肢の提供に終始してきたのではないか。それが、気が付くと「パラダイス鎖国」というか、国民総引き篭もり鎖国のような状況を生んでしまったのかもしれない。中国資本が手本にしたいとする日本の(過剰な)サービスの発達にはこういう背景もあるのではないか。*1
この「国内戦に終始していたら、気が付いたら国外に競合がいなかった」という状況は、電子立国日本の自叙伝「電卓戦争」の話でも聞いたような気がする。
どうあがいても国内に情報がないネタ
というののおかげで、英語の読み書きに強くなれる。*2
その機会を皆さんは落としていることにすら気が付いていないということかと。